カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2009年11月25日

キャロルは3Dハッチバック

連休最後の日に、混んだ国道を避けて旧道に入ったのが運のつきだった。
「もう間に合わへんよ ! どうする ?」
「ここは大昔は追いはぎが出たらしい、、?」
「そんなごまかすようなことを、子たちに話さないで ! 」

子どもが来週には期末テストを控えているのに、遊びに連れてゆく親がここにいる。
「クリスマス・キャロルって映画なあ、、3Dなんやて、、。観に行ってみるか?」
「3Dって何 ? 」
「赤と青の眼鏡、、、ほらUSJでバットマンの乗り物あったやろ、、。」

だが、駆け込みでチケットを求め、その肝心のメガネを探したが見つからず、仕方なしに予告編の途中から入れてもらった館内の薄暗がりの中ではそのようなメガネをかけている人は一人もいなかった、、。

ああ、、父を許せ、、。
家に帰って新聞を広げてみると、宣伝欄の下のほうに本当に小さな文字で "一部の映画館" と書かれてあった。

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2009年11月12日

女の道はLabyrinth

そろそろ冬支度をと、昨年の計画表を元にいろいろと思いを巡らし、方々に連絡をしてみたが"クラゲ"や"温暖化"のせいなのか、例年と違い手に入る材料が限られているようだ。
限りある資源は大切にするようにと、子たちも話してはいるが、こと自然界の話に及ぶと何を為すべきで、何が出来ることかをいざ実践することは難しいことだ。

今日は午後から休みなので、子たちが学校から戻るのを待って「パンズ・ラビリンス」を観る。
もう3年近くも前の映画だが、まだ小さかった子たちには、その余りにもリアルな映像表現や残酷なシーンがあるために、封切り時には観せてやることが出来なかった。(予告編を観ていたし、R12指定だったように覚えている)
無垢な少女が愛情に飢え、何一つ報われずに若くして滅してしまう話なのだが、その幼い子が残した魂の在り方が最後に語りかけてくるようだった。
「本当にオフェリアは王女様だったの? どうしてあんなにがんばったのに最後は死んでしまったの、、。」

三つの試練を勇気と智恵で乗り越えてゆく姿には、ハラハラとしながらも応援するように唇に力が入っているようだった。そしてファンタジーであっても"アリス"や"ライラ"、"千と千尋"とは違い、初めてのハッピーエンドではない展開に戸惑いもあるようだった。
内乱やリンチで人が殺されたり、グロテスクなモンスターの出てくる場面では眼をつぶっていたが、月光の下の少女の死のラストシーンでは潤んでいた。

「、、イイ夢をみる為には、何が必要なんかな? どうゆうふうに毎日過ごすのがエエのんかな、、?」
夢と現実が交差する場面の転換は、子たちには理解しがたく、頭の中で整理しきれなかっただろうが、少女の純な気持ちや正義感には強く共感していたようだった。
全編を通して少女とその母、実はレジスタンスだった召使い、、、女の強さが引き立った感を持ったのは、私だけだったのだろうか?

朝食>ライ麦パン、コーヒー、サラダ(トマト、サニーレタス、胡瓜)、煮抜き、ヨーグルト(柚子茶入り)
昼食>野菜炒めのせラーメン、稲荷すし
夕食>温サラダ(レタス、ほうれん草、じゃがいも)、手羽中塩焼き、蕪昆布和え、ネギの味噌汁

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2008年11月19日

リヴァイバル・ヒット

もう今月も数えるほどしか残っていないことに気づき、暮れの仕事の"段取りノート"を引っ張り出して例年通りの準備プランとスケジュールを把握してみた。
今年は不況とかの影響で仕事の量は減りそうな気配があるし、単価も抑えておかなければならないだろう。
頭に思い描くだけで何ともやりきれない気持ちになってしまう。

休日の今日は、来年の賀状は子たちに倣って「消しゴム判子」に挑戦してみようと、牛の絵や吉祥文などを家人に教えてもらい自分なりにアレンジし、何枚かスケッチし色をつけたりしてみた。
美術にはほど遠い"図工"の時間になったようで、家人にはとても感想を求めるような出来ではなかった。
それでも何枚か描いていくうちに、どこかしら趣のある"ヘタウマ"なものになるのではないかと楽観的になっていた。
そうしてペンを走らせているうちに、その牛のことで思い出すことがあり、レンタル店へ出掛けて映画「シャレード」を借りた。
確かこの映画の中で牛の絵が出てきたはずだったと、脳細胞に「思い出したんかいな、、?」などと言われたようで、今の娘の時分にテレビで観た憶えがあった。

タイトルロールは秀逸で、今こうやって観ても斬新なタイポグラフィや、デザインセンスは他の映画でも取り入れられているように思う。
昼間の部屋ではサスペンスの臨場感に欠けるようだったので、カーテンで陽を遮り映画館のようにした。
ところが全編にわたって暗いシーンが続き、冒頭から眼を凝らすことが多かった。
どこで牛の絵が出て来るのか注視していると、物語の佳境である"用いられたトリック"の中にそれはあった。
けれど30年前からずっと脳細胞に蓄積されていたものとは似つかないものだった。記憶とはこれほどに曖昧なものだったのかと少し残念だった。
ただオードリー・ヘップバーンは前半部分のコケティッシュさが、結末が近づくにつれ次第に薄まってゆき、逞しさを身につけてゆくヒロインを上手く演じていた。このことは30年経った今でないと判らないことだった。
そして同じく身に纏っているジバンシィも「ハーフコートやジャケットの背側を、分からないように上手くステッチしてあるから全体のシルエットが綺麗ね、、。」と言う家人の言葉から、そのセンスの良さと技術が良く理解できた。
加えて「あの頃のジバンシィは欲しいけれど、ビックリするような値がついているのよ、、。」と、何か冬のアイテムが欲しいらしい、、。

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2008年6月 6日

こわい飯より思うこと

暑くなってくると甘いアイスよりも、背中がひんやりとするような刺激が欲しくなる。それは恐い映画に他ならない。日本ではその題材に古くから伝わる怪異談が使われてきた。有名な四谷怪談や雨月物語など、多くはこの世とあの世をつなぐような話である。けれど最近ではおどろおどろしいものから、物質的機械的なアプローチが多く見受けられるようになって来たようだ。

貞子の話も携帯電話の話も、カラオケの話もそんな感じだった。確かに恐いことには違いなかったが、何と言おうか陰翳のない、薄っぺらな感じに恐怖を煽られるのは如何なものかと、映画館で見終わってギュッと手をつないで帰るカップルの後姿を見て思ったものだ。

現代の人間関係をそのまま映し出しているのは、そこに病理的な恐ろしさがあることなのだろうか?顔も声も知らない隣人と交わす言葉や感情は、どこまで沁み込んでゆくのだろうか?交感することの変化に追いついていないせいか、怖がりたいと正視すればするほど冷めてゆく自分に気がついたのだった。

もちろん本当に恐ろしいのは人間の業や怨であって、物の怪やその姿などではないが、やはりゾ~ッとしたり、ビクッとする愕きが加味されて不気味さが増していくのは、見えない陰の部分が大事なことではないだろうか。音響で誤魔化されるのは懲り懲りで、スプラッター系のものには閉口してしまう。今日6月6日は、そうダミアンの誕生日なので「オーメン」でも借りてこようかと、まかないの箸を上げ下ろししながら思った。ただ来週が13日の金曜日であっても、ジェイソンには勘弁願うつもりである。

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2008年5月30日

ニヤリストとニヒリスト

先週末からの疲れからか、季節が変わろうとしているのに自らは動こうとするのに億劫で、子たちを送り出したあとソファにひっくり返って本を広げ、テーブルに広げた朝刊と交互に眼をやり、面白いニュースでもと探すが節辛い世の中には、にやりとするようなことは起こっていなかった。

が、面白いものは娘の机の上にあった。

それは家人の誕生日プレゼントに丁寧にこしらえた「お手伝い券」の束だった。
一枚づつ手書きで大きく「この券で以下の仕事のお手伝いをします」とあり、掃除、皿洗い、洗濯物をたたむことなど自分で出来るだろうと思っていることが書かれてあった。
裏には期限までちゃんと書かれてあった。「有こうきかん平成1000年」と、、。

休みには映画を一本観ようと頭で思っていても、身体がそんな気になれない日もある。先週末に頼んで借りてきてもらったものの期限が近づいていたので、コーヒーでもいれてクッキーでも摘みながらと、水屋からフィルターを出しコーヒーメーカーに地下水を用意したまではよかったが、冷凍室にあるはずの肝心の豆が見当たらず、仕方なしに黒豆を煎って焙じ茶と一緒に煮出して「豆茶」をこしらえた。子たちにはブルーベリー・ジュースを用意し、ラスクと塩気を忍ばせた砂糖がけの小さな煎餅を、手塩皿にそれぞれのせてPCのモニターに向かい合った。

映画は「Family Plot」。ヒッチコックの遺作である。
本当は借りた日に子たちと観るつもりだったが、冒頭の似非占いのシーンが何故か怖いようで取り止め、仕方無しにもう一本を見せたのが「眠狂四郎炎情剣」だった。

が、意外な反応にビックリした。

「ずうっと笑いもしいひんし、怒っても恐い顔にならへんな~、、。昔の人はみんなこんなやってんか、、?」

、、、昔の人とは時代劇の背景のその時代ではなく、昭和の真っ只中のことを言っているらしい。

「お父さんの時代の人?は、みんな無口やってんな。」

雷蔵の面立ちと所作とに興味をもったようで、早速真似て木刀をスカートのベルトループに通して、細めに開けた眼で何やら話している姿は可笑しかった。これがニヒルの洗礼なんだろうか、、?     

当時週刊新潮で連載されていた「眠狂四郎無頼控」は確か図書館にあったはずなので、今度借りてみようかと思っている。    

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2008年4月28日

В Кино

テレビがない分映画を観る回数が増えた。そのことに連れて少年期、青年期に思い入れのある作品をもう一度みたいという欲求が高まっている。感傷に浸るわけではなく、ただもう一度観て印象をあらためておきたい気が強くなっているわけ、、。

そんなことを何気に悪友に話してみると、、

「WEBレンタルあるやん!TsutayaもYahoo!もやってるで! 回転率が悪かろうが関係なしやな、旧いもんもDVDになってるんは大抵あるで、ぎょうさんあるで、、。」

営業担当のような口ぶりで、いろいろと詳しく聞きだすと、そいつはもう3年前から会員になっているという。

「著名人や有名俳優なんかが亡くなったりするやろ、そしたら関連作品に貸し出しがドンと増えんのよ。今なら"月光仮面"に"レインボーマン"やな、、? 自分なら誰や分かるやろ。予約も出来るし貸し出し期間も長いさかい二度三度と観れるんよ、、。ほら、自分とこの親父さんに連れてってもろたんも、この前ぼん(彼の息子)と観たわ、、。」

、、、なるほどと思った。出来てはなくなるレンタル店の過当競争の裏で、元締めがしっかりと動いているようで、廃盤になったものも枚数は少ないが貸し出し出来るらしい。子供の頃に観た東宝の特撮怪獣映画や、旧い東映アニメ、、、漢字の頃の日活作品等々、そして今の若い映画作家の作品のいろいろなカットから思い起こす"長谷川和彦作品"は全部揃っているらしく品揃えにも不満はないと話してくれた。

連休明けに調べてみようと思う。子たちの要望でYoutubeからミュージシャンのPVを取り込むフリーソフトの使い方をマスターもしなあかんし、、、来月の真ん中過ぎな何も手が付けられへんけど、、。

追記

来月九日まで"ここ"はお休みします。季節はもう夏ですな~、、。

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2008年4月25日

私のアカルイミライ

頭の上の棚からさがる白い花が、風に揺られて芳しい匂いを放っている。

ここの藤は白だった。あの頃は病院の窓から見下ろす公園では、いつも子どもたちが走り回っていた。毎日制限された昼食を摂り、夕方まで2時間あまりをリハビリに費やしていた。昨年ドラマ「ハゲタカ」の後半で主人公が、過酷なリハビリにのぞんでいる姿には遠く過ぎた時間を思い起こさずにはいられなかった。西日が棚の影を長くする頃には、詰襟のままギターやフルートなどの練習に精を出す学生たちの姿もあった。

もうあれから15年が経った。

身体のダメージが大きかったこともあり、松葉杖からオサラバするにはあと4ヶ月の時間が必要だった。冷たい冬の間はじっと眠っている動物のように、ただベッドの上で横になっているだけで、暖かくなって身体を起こすことから始まったリハビリの頃は、今日のように表は桜の時期も過ぎて藤が咲誇っていた。

ちょろちょろと水の流れる川の両側には、鮮やかなもみじの木の緑と自然生えなのか幹のごつい石南花の淡いピンクの色が、初夏を思わせる日差しの中でたゆたうように溶け込んでいた。

「今は待て!」映画"アカルイミライ"の中でサインとともに叫ぶ守(浅野忠信)の言葉は、あの頃の自分に暗示をかけるようにしていた言葉だった。感情を抑え、自らを時間軸にゆだねて理性を満たして生きることは難しい。人は毎日何もしないわけにはいかないし、良きにつけ悪しきにつけ新しい刺激を求めてもいる。自由に身動きのとれなかった私には、耐えることの辛さを十分に知った入院経験だった。

毒気のあるモノは世間にはいろいろ溢れている。触れただけで命を奪うような本物の毒もあれば、ただ参った!と手を挙げてしまうものもある。胆略な動機で殺人を犯し服役した守から飼育を任された毒を孕むアカクラゲを、主人公雄二(オダギリジョー)は誤って水槽から床下に流してしまう。死んだと思われたクラゲは、床下を通る溝川の澱んだ水の中で漂っていた。

雄二は精神の高揚を上手くコントロールできない若者だった。また自分の見る未来の夢に悩まされていた。ある夜の夢、、、行き先もわからず嵐の中を一人、ただ先を急ぐ雄二の姿、、。守は刑務所の中で自死を選んだ。「行け!」というサインを雄二に投げかけたままの姿で、、。

荼毘にふされ小さな箱に入った守を抱えた父親(藤竜也)と出会い、仕事を手伝いながら、雄二は生き続ける意味を自ら見つけようともがく。守との約束を果たそうと闇雲に川にクラゲの餌をばら撒くことを来る日来る日も続ける。次第に映画からは生が生を繋ぐような印象を受けた。生かしていることの悦びと、生かされていることへの義憤が表れては消えする性格が、次第に落ち着いた面立ちに変わってくる。

以前に観た「メゾンドヒミコ」や「キッチン」もそうだったが、衣装の北村道子さんのセンスは流石と言う他無い。登場人物たちはチープシックに身を包んではいるが、心のあり方や眼の輝きには深い情を湛えていた。そのことが一層迫って見えていた。

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2008年4月21日

896+69=1040?

やはり今朝は起きられなかった、、。

仕事場から帰ると家の中が真っ暗で、いつも玄関の明かりぐらいは点いているのに事件か!などと、ひとり下世話なことを考えた。緊張気味に部屋に入ると、子たちが家人と映画を観ていた。

「な~んや! そうか、、。」

「一緒に観よ!ご飯よそってこちらへどうぞ。」

映画は半分ぐらい済んでいたようだったが、どこからが佳境なのか?ここがラストシーンなのか、、? 分からないうちに音楽が始まってエンドロールに替わった。

同名コミックの映画化で若い人には受けたらしかったが、コミックに熱中していた種の人には物足りなかったに違いない。映画のシナリオでは登場人物のアク(性格や位置付け)が弱く、一人ひとりが中途半端な感が否めず、物語の流れに飲み込まれたように思えた。

「もう、おしまいなんかな、、?」

恋愛の感情を起こさせるようなら観せないでおこうと、家人は思っていたようだが読んでいた原作と違っていたので、そのまま観せたと話していた。

「加瀬君、がんばってたのにな、、。 こんなんもあるけど、明日の朝起きられるかいな?」

と、続けてもう一本観る用意をした。

「今の俳優さんも出てはるし、ウォーターボーイズのお兄ちゃんも出てはるで!」

こっちは小説が原作で、脚本は流行りの人が書いている。封切されたのはちょっと前だが、時代背景を鑑みてもいつ観てもいいような映画だった。

「青春デンデケデケデケ」と、時代を同じくした地方都市でのお話だが、こちらには戦争を挟んでの人の思いや考え方の違いを笑いで吹き飛ばすような快活さがあった。(担任の先生役は一緒だった。)

子たちには背伸びするような表現(テレビではカットされる!)もあるのだが、スクリーンからはみ出るような俳優の動きが観られて楽しかったようだった。シナリオの妙もあり飽きさせない物語の展開がなによりだった。そして主人公に絡むヒロインは言葉少なく、主張もなくその分では古典的でもあったが、その存在には確かなものがあった。

「映画っちゅうのんは、面白うて人間を考えさせられへんとアカンわな! 物足りんわな、、。」(櫻井クンもがんばってたが、「黄色い涙」同様に人物像に乏しかったようだった、、。)

・ ・ ・ ・ ・と、こういった訳で起きられなかった。朝日は誰の枕元にもやって来るのが分かるほどにイタイような照り付け方だった。

追記

原作の印象とは違っていたが、体育教師の演技は語り継がれてもいいだろう。

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2008年4月14日

Morning Show はお一人様 Part2

週の始めはあいにくの雨。窓越しにゆらゆらとした黄色いカッパの列をじっと見ていた。

「この前のレンタルはどんなもの? 今度は一緒に観てもエエの?」

バイオレンスな匂いを感じたので子たちが居ない内にと借りておいたのは、またまたオダギリジョーの「スクラップヘブン」。監督・脚本は「フラガール」の李相日、共演は加瀬亮、栗山千明、柄本明、光石研等々、脇まで豪華な配役だった。

毎日に不満や鬱憤をつのらせる若者たち三人が、閉塞感を極限までに感じることになる"バスジャック"に巻き込まれ、三ヶ月後の偶然の出会いから歪んだ正義感を振りかざし、男ふたりの「復讐代行業」といった狂気の両輪がゆっくりと回り始める、、といったストーリーで、アメリカ仕込みの肉体の躍動感豊かなフリーター(葛井テツ)役のオダギリジョーと、警察官(粕谷シンゴ)であるがゆえにその血から逃れることの出来ない加瀬亮のふたりが、やがてシンクロしてゆく様をカメラはじっと追うように見つめている。笑いをも含んだ物語がやがて暗い影を帯びるようになる演出や、それを追い立てるような音楽に拍手を贈りたい。

一方で女は自室で秘かに恐ろしい薬品の精製に生き甲斐を得ていた。このあたりはごく普通の人間でも狂気を帯びることは全く普通のことだとも思えた。しかし荒んだテツが心の拠り所としていた父親の自死をきっかけに、男ふたりの狂気が走り出し、やがてふたりにも止める事ができなくなってしまう。

亡き父親の遺骨をビルの屋上から撒き散らすテツ。次の瞬間遺灰が摩天楼を覆い画面は無機質な灰色へと変わってゆく。灰=死である連想から、女の薬品が"核兵器"(プルトニゥム?)であろうかと思わせる。

何事も"中毒"といった言葉で片付けることは出来るが、次第に暴走する両輪は行動の意味を失い、思考をパスし神経だけが尖ってゆくのが正にこのジャンキー化ということだろう。「世界を一瞬で消す方法」は女の差し出した薬品なのか?それともこの世からあの世へと移りゆくことが、自らの眼の前から消すことになるのだろうか?三人それぞれが生きてきたフィールドの論理や秩序も、もう関わりのないことだと断ち切ろうとし、新しい生き方(ヘブン)を手に入れられるのか、、?

ドロドロと汚れて薄暗い公衆トイレを復讐の依頼場所に設定し、明るい日差しの差し込む女の部屋、警察署内の地下室、、、光の当たらない場所には"影"は見当たらないが"陰"は産まれているのだといったブラックな感じもした。

ラストシーンは男の別れとそれぞれのリスタートだが、女はスーツケースを持っていたのに、男ふたりは両手に何も持たずにいるのが印象に残った。ただあのスーツケースの中身で明日が開けるとは思えないのだが、、。そこに観る側の想像力を働かせることなのだろう。

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2008年4月13日

甘くないオマンジュウ(オマージュ)

昨秋から毎週一本のレンタル映画と、月に一本のロードショウを観る約束で、子たちにはテレビの買い替えを我慢してもらっている。学校では世間の話題についていけないと、困り顔をすることもあるのだが、スクリーンに没入できる時間を好むようになってきた。

昨晩はフランスアニメ「王様と鳥」を、真っ暗がりの中で食卓を囲んで観た。終わりかけの桜をめでに、お城の桜場まで出掛けようかと思っていたが、あまりにも繰出す人が多いことを聞いたこともあって、急遽映画鑑賞に変更した。

テーブルにはバラちらしを食べやすいように、細巻きにしたものと、竹の子おこわを俵にしたものを尺二ぐらいの大きな皿に、無造作に積み上げてそれぞれが摘んで食べられるようにしておいた。

「あれ? 前に観たホラ!何とかとよう似てるなあ~、、?」

このアニメは宮崎アニメ「ルパン三世 カリオストロの城」に似ている。とある国の暴君が無理やりに后にしようとする娘の隠された恋、そして破壊と略奪で世の中を渡ってきたかのようなその暴君の生き様、、。

ストーリーはもちろん画面構成や、建物、美術、衣装にまでその影響がうかがえる。

「こういったのをオマージュって言うんよ。」

そう、決してアイデアを盗用したわけではない。優れた作品には尊敬の念からこういったものが産まれてくるのが当然なことだと話した。(思うに暴君の系譜は「シュレック」にも繋がっているようである、、。)

「自分が他所から良い目に接してもらったり、思いやりを感じることが出来たなら、それをそのまま人に伝えることのように思えばエエのん違う?」

いずれも結末はハッピーエンドなのだが、そのスパイスの効き方は異なり、異国のモノは大きな教訓を残しているように感じた。

「ご飯の後はオマージュより、甘~いおまんじゅうにしてね!」

花より団子の下の娘はおどけてそう言った。

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